2023年5月2日火曜日。
先週、悪天候のため中止・順延にした第516回メリパナイトランを無事に開催することが出来た。
個人的に、この日は夫婦共々仕事が休みだった。なので、少し早めにメリケンパーク入りして「ビフォー・メリパナイトラン」をした。これが地獄のようにキツかった。メリパナイトランのペースは、おおよそ1キロ7分から8分の間。ビフォーランは、それより少し早めの1キロ6分40秒くらいのペースで走っただけなのに、口から内臓が全部出そうなくらいにキツく感じる。花粉症が酷いのに加えて、先週ある朝起きたときに足の小指が謎の強打をしてパンパカパンに腫れあがっていることに気づいてから、歩くのも少々不自由だったせいである。身体の老いというものは、本当に恐ろしい。
一方、本番のメリパナイトランは、連休の谷間にあたる平日にもかかわらず、おっさん含めて11名が集合してのナイトランになった。お久しぶりの参加者もチラホラといらっしゃった。
メリケン亭での打ち上げでは、「神回」だった先々週(前回)の余韻話に始まり、普段の取り留めのない話で盛り上がる。
メリケン亭の閉店時間まぎわ、男性のお客が1名入ってこられた。
マスターの知り合い(後輩や言うてたかな?)だそうで、初めて見るお顔だった。
前回よろしく、またまたマスターが、その方と話し込んでいた「お題」を我々に振ってきた。
なんでも、お身内に認知症の症状が出始めたとのこと。医療従事者である妻や管理栄養士の参加者などが「お悩み相談室」に答える展開になる。
おっさんは、認知症というキーワードから昨年読んだ中で最も強いインパクトを受けた本を思い出して、それを読んでみたらと紹介した。
その本は、村瀬孝生の「シンクロと自由」。
福岡市で特別養護老人ホームを運営している氏が日々相対している老人方との関わりを通じて、単なる言い換えではない、老体にある私たちが持ち得ない躍動感の存在を主張されている内容だ。
「本文から一部引用」
不自由になる体は私に新たな自由をもたらすのである。時間の見当がつかないことで時間から解放される。空間の見当がつかなければ場に応じた振る舞いに囚われることもない。たとえ寝たきりになってもその場に縛られてはいない。子供の顔を忘れることで親の役割を免じられる。覚えていないことで毎日が新鮮になる。怒りや憎しみが溜まりづらくなり喜びが訪れやすくなる。
それらは私の自己像が崩壊することであり、私が私に課していた規範からの解放でもある。私であると思い込んでいたことが解体されることで生まれる自由なのだ。
では私は私を失うのだろうか。そうではないと思う。私が変容して新たな「わたし」へと移行するだけである。介護とはその過程に付き合うことではないだろうか。
身体はますます不自由になりながら、社会にある概念的なものから、ますます自由になっていくのが老いとするならば、そこにはどのような世界があるのだろうか。
いずれにしても「老い」には、老衰=機能低下の文脈にはおさまらない、生き生きとした営みがある。大げさに言えば、蛹(さなぎ)のなかで体がドロドロに溶け、全く違うものに姿を変えるような、ダイナミックな変化の渦中にあるのだと思う。
著者は「まえがき」で述べている。この本は明日からの介護にすぐ役立つことはない。けれど、よく分からないことに、分からぬまま付き合い続ける実践があってもよいと思うのです、と。
おっさんが走り続けているのも、メリパナイトランを続けているのも、まったく同じ気持ちである。
マスターの後輩さん?が、この本を手に取るのかどうかは分からない。