おっさんにマラソン

おっさんにマラソンを当てがってみた記録と思索

閾値への挑戦状なのか、閾値からの挑戦状なのか?

必死のパッチで乾燥した第10回神戸マラソン。

待っていてくれていた妻と合流して、水ブクレた脚を引きずりながら花隈の銭湯(司湯)でこびりついた汗を流し、一緒に参加したり応援してくれた友達と三宮で打ち上げて帰宅した。

とにかく疲れた。神戸の1週間前に長野へ行って松本マラソンを走るという無謀に近い(いや無謀だ)ことをやって身体を痛めてホイホイホイと。コロナ禍で中止が続いた各地のマラソンが再開しつつあるという時の流れに乗って「走りたい」一心で申し込んだら、エントリーした大会が全部当選したという展開だったから、ノリで走ってしまった感が強い。

神戸もポシャったけど、その前の松本もボディ&ソウルをボキボキにへし折られた結果だったのが残念でならない。気持ちも弱化しているが、それ以上に身体の老化が激しい気がしている。これからどうやって「走り」と向き合って暮らしていったら良いのか?

このままでは愉しくない。

早いタイムで走破することは嬉しいことに違いないけど、私にとっては副産物でしかない。走っている最中や走り終えた後に起こる出来事や浮かび上がる思索、それが日々の暮らしの機動力なり潤滑油にするのが、私にとって「走り」との付き合い方だ。それが、ただただ疲れるだけ、「走り」と付き合いきれなくなっていた。老いている自分の身体と向き合えていなかった自分の心。職業・管理人としては失格だなコレ。

さあ、身体よ。
錆びつき具合を感じさせてもらおう。
欲している栄養を感じさせてもらおう。
妻に息子たちに孫に、
せねばならぬことがテンコ盛りに残っとるで。
今この時の「ベター」を作り上げていこう。

で、実際のところどないなん?マヂで?

私の身体が、いったいどこまで走れなくなっているのか?
2022年の師走、少々ヤル気の起こった私は、身体がどれだけ老いているのか?それを感じてどんな思いが湧き上がるのか?今の身体の「閾値」を身体に問うてみることにした。